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浄土真宗ゾーエー派の教理問答

Catechism on Zoeha of Jodo Shinshu
第零版alpha00
最終更新日――2017年11月13日(月)

目次

[第一節]概要

問一・一 この経典には何が書かれてるんですか。

この経典(「浄土真宗ゾーエー派の教理問答」)は、 「ゾーエー派」という宗教の教義を問答形式で記述したものです。

問一・二 ゾーエー派って、どういう宗教なんですか。

ゾーエー派は、 この経典の筆者である私(大黒学)が開発した、 「阿弥陀」(あみだ)と呼ばれる存在者をめぐる教義から構成される宗教です。

ゾーエー派は、 「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)と呼ばれる宗教に属している宗派の一つです。 そして、浄土真宗は、 「浄土教」(じょうどきょう)と呼ばれる宗教に属している宗派の一つです。 そして、浄土教は、 「大乗仏教」(だいじょうぶっきょう)と呼ばれる宗教に属している宗派の一つです。 そこで、この経典では、 まず第二節で大乗仏教について説明して、 次に第三節で浄土教について説明して、 次に第四節浄土真宗について説明して、 そして第五節以降で、 浄土真宗の他の宗派の教義とは異なる、 ゾーエー派の独自の教義について説明することにしたいと思います。

[第二節]大乗仏教

問二・一 大乗仏教って、どういう宗教なんですか。

大乗仏教は、 「仏教」(ぶっきょう)と呼ばれる宗教を構成している宗派の一つです。

仏教は、「釈迦」(しゃか)と呼ばれる人物が創始して、 彼の後継者たちが発展させた宗教です。 釈迦は、「釈迦牟尼」(しゃかむに)、「釈尊」(しゃくそん)、 「仏陀」(ぶっだ)などと呼ばれることもあります。

現在の仏教は、大きく分類すると、 二つの宗派に分かれていると考えることができます。 その一つは「部派仏教」(ぶはぶっきょう)と呼ばれる宗派で、 もう一つが大乗仏教です。 前者は釈迦の教えに近い教義を持っていて、 後者は釈迦の教えを発展させた教義を持っています。

大乗仏教の「大乗」というのは、大きな乗物という意味です。 それに対して、「小乗」という言葉は、 小さな乗物を意味しています。 大乗仏教の信徒は、 部派仏教のことを「小乗仏教」と呼ぶことがありますが、 この言葉は部派仏教に対する蔑称です。

問二・二 煩悩って何ですか。

「煩悩」(ぼんのう)というのは、 人間が持つ様々な執着心のことです。

人間は、様々な苦しみとともに生きています。 人間の苦しみの原因は様々ですが、煩悩というのは、 それらの原因のうちの一つです。

仏教においては、 煩悩は修行によって絶つことができると考えられています。 修行によって煩悩を絶つことは、「解脱(げだつ)する」、 「悟りを開く」、「涅槃(ねはん)に至る」、などと言われます。

解脱した人間は、煩悩を原因とする苦しみから解放されます。 しかし、人間の苦しみの原因は煩悩だけではありませんので、 人間は、たとえ解脱したとしても、 すべての苦しみから解放されるわけではありません。

問二・三 如来って何ですか。

「如来」(にょらい)というのは、 修行によって解脱した人間のことです。 「仏陀」(ぶっだ)あるいは「仏」(ほとけ)と呼ばれることもあります。

代表的な如来としては、釈迦(しゃか。仏教の開祖)、 薬師(やくし)、大日(だいにち)、 阿弥陀(あみだ)などがいます。

問二・四 菩薩って何ですか。

「菩薩」(ぼさつ)というのは、 如来になるための修行をしている人間のうちで、 将来は如来になることがすでに確定している者のことです。

代表的な菩薩としては、観音(かんのん)、文殊(もんじゅ)、 普賢(ふげん)、地蔵(じぞう)、弥勒(みろく)などがいます。

問二・五 衆生って何ですか。

「衆生」(しゅじょう)というのは、命を持っている存在者、 すなわち生物のことです。

問二・六 浄土って何ですか。

「浄土」(じょうど)というのは、 如来または菩薩が住んでいる、苦しみのない世界のことです。

代表的な浄土としては、釈迦が住んでいる霊山(りょうぜん)、 薬師が住んでいる浄瑠璃世界(じょうるりせかい)、 阿弥陀が住んでいる極楽(ごくらく)、 観音が住んでいる普陀落山(ふだらくせん)、 弥勒が住んでいる兜率天(とそつてん)などがあります。

浄土に対して、衆生が苦しみとともに生きている世界は、 「穢土」(えど)と呼ばれます。

問二・七 煩悩って、人間以外の衆生も持ってるんですか。

いいえ。 煩悩を持っている衆生は、人間だけです。

いかなる衆生にとっても、生きるということには、 多かれ少なかれ苦しみが伴います。 苦しみの原因には様々なものがありますが、 人間以外の衆生は煩悩を持っていませんので、 彼らの苦しみの原因は、煩悩以外のものです。

問二・八 往生するって、どういうことですか。

「往生する」(おうじょうする)というのは、衆生が、 死んだのちに浄土に生まれ変わることです。

浄土に往生した衆生は、二度と死ぬことはなく、 そこで永続的に生き続けることができます。

問二・九 慈悲とか廻向とか功徳とかって、何のことですか。

「慈悲」(じひ)、「廻向」(えこう)、 「功徳」(くどく)は、いずれも、存在者が存在者に対して、 何らかの仏教的な価値を持つものを与える、 ということにかかわることを意味している言葉です。

慈悲というのは、存在者が存在者に対して、 何らかの仏教的な価値を持つものを与える場合における、 与える側の存在者が持つ、その動機となる感情のことです。

廻向というのは、存在者が存在者に対して、 何らかの仏教的な価値を持つものを与える、という働きのことです。

功徳というのは、存在者が存在者に対して与える、 何らかの仏教的な価値を持つもののことです。

[第三節]浄土教

問三・一 浄土教って、どういう宗教なんですか。

浄土教は、「すべての衆生は、阿弥陀が持つ力によって、 死後に極楽に往生することができる」と説く宗教です。

浄土教は、大乗仏教に属している宗派の一つです。

問三・二 阿弥陀って、どういう如来なんですか。

阿弥陀(あみだ)は、 すべての衆生が自身の浄土に往生することを願っている如来です。 「阿弥陀如来」(あみだにょらい)、「阿弥陀仏」(あみだぶつ)、 「弥陀」(みだ)などと呼ばれることもあります。

問二・六で述べたように、 阿弥陀が住んでいる浄土は「極楽」(ごくらく)と呼ばれます。 極楽は、「極楽浄土」(ごくらくじょうど)、 「安養浄土」(あんにょうじょうど)、 「西方浄土」(さいほうじょうど)などと呼ばれることもあります。

阿弥陀は、 サンスクリット語では「アミターユス」または「アミターバ」と呼ばれます。 「アミタ」というのは「量ることができない」という意味で、 「アーユス」は年齢、「アーバ」は光という意味です。 したがって、 「アミターユス」は「量ることができない年齢」を意味していて、 「アミターバ」は「量ることができない光」を意味している、 ということになります。

問三・三 念仏って何ですか。

「念仏」(ねんぶつ)というのは、浄土教において、 衆生がそれをすれば阿弥陀がその衆生を極楽に往生させることになると考えられているところの行為のことです。

浄土教の宗派の多くにおいては、 「観想念仏」(かんそうねんぶつ)と呼ばれるものと、 「称名念仏」(しょうみょうねんぶつ)と呼ばれるものが、 念仏であると考えられています。 観想念仏は阿弥陀や極楽を心の中で想い描くという行為で、 称名念仏は阿弥陀の名前を称えるという行為です。

法然(ほうねん)という人物が創始した「浄土宗」(じょうどしゅう)という浄土教の宗派においては、 極楽に往生するために必要となる念仏は称名念仏のみであると考えられています。

問三・四 衆生は、なぜ、 念仏をすることによって極楽に往生することができるんですか。

衆生が念仏によって極楽に往生することができる理由は、 阿弥陀が、 念仏をする衆生を極楽に往生させるという誓願を立てたからです。

阿弥陀がまだ如来ではなく、 「法蔵」(ほうぞう)という名前を持つ菩薩だったとき、 彼は「四十八願」(しじゅうはちがん)と呼ばれる四十八個の誓願を立てました。 それらのうちの「第十八願」と呼ばれる十八番目の誓願は、 「もしも念仏をする衆生が極楽に往生しないのであるならば、 その場合には私は如来にならないでおこう」というものでした。 その後、彼は如来になったわけですから、 念仏をする衆生は必ず極楽に往生するということになります。

一般に、菩薩が立てる、 衆生を救済するということについての誓願は、 「本願」(ほんがん)と呼ばれます。 法蔵による四十八願も、本願の一例です。

問三・五 自力とか他力とかって、何のことですか。

浄土教においては、 衆生が実行する行為という意味で「自力」(じりき)という言葉を使い、 阿弥陀が実行する行為という意味で「他力」(たりき)という言葉を使います。

問三・六 浄土教では、衆生は、 煩悩を絶つ修行をしなくても極楽に往生することができる、 と考えられてるんですか。

はい。 浄土教においては、衆生は、 煩悩を絶つ修行をしなくても極楽に往生することができる、 と考えられています。

浄土教においては、念仏をする者は、 煩悩を持っているか否かとは無関係に、 阿弥陀の他力によって極楽に往生することができると考えられています。 ですから、浄土教の信徒にとって、煩悩を絶つという自力の修行は、 する必要のないものです。

問三・七 浄土教では、極楽に往生するために、 自力というのはまったく不必要なものだと考えられてるんですか。

いいえ。 浄土教の宗派の多くにおいては、極楽に往生するためには、 阿弥陀の他力だけではなく、自力も必要だと考えられています。

浄土教の宗派の多くにおいて、 極楽に往生するために必要であると考えられている自力は、 「往相廻向」(おうそうえこう)と呼ばれます。

往相廻向は、 「二種廻向」(にしゅえこう)と呼ばれる二種類の廻向(問二・八参照)のうちの一つです。 二種廻向を構成している二種類の廻向のうちのもう一つは、 「還相廻向」(げんそうえこう)と呼ばれます。 二種廻向は、 「往還廻向」(おうげんえこう)と呼ばれることもあります。

「往相」(おうそう)というのは穢土から極楽へという方向のことで、 「還相」(げんそう)というのは極楽から穢土へという方向のことです。

往相廻向というのは、極楽への往生を目指している者が、 まだ往生していない自分以外の衆生に対して極楽への往生という功徳を与えることです。 それに対して、還相廻向というのは、 すでに極楽への往生を果たした者が、再び穢土に戻って、 まだ往生していない衆生に対して極楽への往生という功徳を与えることです。

[第四節]浄土真宗

問四・一 浄土真宗って、どういう宗教なんですか。

浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、 親鸞(しんらん)という人物が、 浄土宗(問三・三参照)を発展させることによって創始した宗教です。

問四・二 浄土真宗って、浄土教の他の宗派とは何が違うんですか。

浄土真宗と、浄土教の他の宗派との間には、 様々な相違点がありますが、最大の相違点は、 二種廻向(問三・七参照)に対する考え方です。

問三・七で述べたように、浄土教の宗派の多くにおいては、 往相廻向と還相廻向は、極楽への往生を目指す者や、 極楽への往生を果たした者による自力の行為であると考えられています。 それに対して、浄土真宗では、二種廻向はいずれも、 阿弥陀による他力の行為であると考えられています。

したがって、浄土真宗においては、極楽に往生するために、 いかなる自力も必要ではないと考えられていることになります。

問四・三 浄土真宗では、どんな行為を念仏とみなすんですか。

浄土真宗の宗派の多くにおいては、 阿弥陀の名前を称えるという行為のみを、すなわち称名念仏のみを、 念仏とみなします。

浄土真宗では、念仏において称えられる阿弥陀の名前を、 「名号」(みょうごう)と呼びます。 名号としては、 「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という六字のものが一般的ですが、 「南無無礙光如来」(なむむげこうにょらい)、 「南無不可思議光如来」(なむふかしぎこうにょらい)、 「帰命尽十方無礙光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)というものもあります。

問四・一で述べたように、浄土真宗は、 浄土宗を発展させた宗派です。 称名念仏のみを念仏とみなすという浄土真宗の教義は、 浄土宗から継承したものです。

問四・四 浄土真宗に属してる宗派でゾーエー派以外のものって、 どんなものがあるんですか。

浄土真宗に属している宗派としては、ゾーエー派以外に、 本願寺派(ほんがんじは)、大谷派(おおたには)、 高田派(たかだは)、仏光寺派(ぶっこうじは)、 三門徒派(さんもんとは)、出雲路派(いずもじは)、 山元派(やまもとは)、木辺派(きべは)などがあります。

[第五節]ゾーエー

問五・一 ゾーエー派って、浄土真宗の他の宗派と何が違うんですか。

ゾーエー派と、浄土真宗の他の宗派との最大の相違点は、 阿弥陀はいかなる存在者であると考えるか、 というところにあります。

ゾーエー派が考える阿弥陀について説明するためには、 その準備として、 「ゾーエー」と呼ばれる概念について説明する必要があります。 そこで、問五・二でゾーエーについて説明して、 次の問五・三でゾーエー派における阿弥陀について説明することにしたいと思います。

阿弥陀についての考え方の相違に伴って、 いかなる行為を念仏とみなすかということについても、 ゾーエー派と、 浄土真宗の他の宗派との間には大きな差異があります。 この問題については、問五・六で説明することにしたいと思います。

問五・二 ゾーエーって何ですか。

ゾーエー派においては、「ゾーエー」という言葉を、 すべての衆生が持っている霊的な命という意味で使います。

ゾーエー派においては、いかなる衆生についても、 その肉体が誕生したときに二種類の命が活動を開始すると考えられています。 一つは肉体的な命で、もう一つは霊的な命です。 ゾーエー派においては、肉体的な命を「ビオス」と呼び、 霊的な命を「ゾーエー」と呼びます。

ビオスとゾーエーは、 衆生の肉体が誕生したときにその活動を開始するという点では共通していますが、 その衆生の肉体が死亡したときに、活動を終了するか、 それとも活動を継続するか、という点では異なっています。 ビオスは肉体が死亡した時点で活動を終了しますが、 ゾーエーは肉体が死亡したのちも活動を継続します。

さらに、ビオスとゾーエーとの間には、 思考力の有無という相違点もあります。 すべてのゾーエーには思考力があります。 それに対して、ビオスには必ずしも思考力があるとは限りません。 思考力があるビオスを持っているのは、 人間などの一部の衆生だけです。 多くの衆生が持っているビオスには思考力がありません。

すべてのゾーエーには思考力があるのですが、 その思考力が働き始めるのは、肉体が死亡したのちのことです。 ビオスとともにあるゾーエーは、そのビオスが足枷となって、 思考力を封じられた状態になっています。

問五・三 ゾーエー派では、 阿弥陀というのはどのような存在者だと考えられてるんですか。

ゾーエー派においては、阿弥陀というのは、 肉体が死亡した衆生のゾーエーから構成される集合体であると考えられています。

宇宙のどこであろうと、宇宙のどの時代であろうと、 衆生の肉体が死亡して、その衆生のビオスが終了すると、阿弥陀は、 その肉体に宿っていたゾーエーを収集して、 それを自分の一部分にします。 それらのゾーエーは、阿弥陀の一部分として、 宇宙が存在する限り存在し続けます。 したがって、現在の阿弥陀には、 宇宙の始まりから現在までの間に宇宙のどこかで生まれて死んだ、 すべての衆生のゾーエーが含まれていることになります。

問五・四 ゾーエー派においても、 阿弥陀が住んでいる場所は「極楽」と呼ばれるんですか。

はい。 ゾーエー派においても、 阿弥陀が住んでいる場所は「極楽」と呼ばれます。

ゾーエー派においては、衆生が阿弥陀の一部分になることを、 「衆生が極楽に往生する」と言います。

問五・五 ゾーエー派でも、 阿弥陀というのは法蔵という名前の菩薩が如来になった存在者だと考えられてるんですか。

いいえ。 ゾーエー派においては、阿弥陀は、 我々の宇宙で誕生した最初の衆生が死亡したときに出現して、 我々の宇宙が死を迎えたときに消滅する存在者であると考えられています。

法蔵という名前の菩薩が誓願を立てて阿弥陀という如来になったという物語は、 衆生を極楽に往生させる存在者が阿弥陀であるということを神話的に語ったものです。

しかし、ゾーエー派においても、 阿弥陀は如来であると考えられています。 その理由は、ゾーエー派における「如来」という言葉の定義が、 大乗仏教の他の宗派とは異なっているからです。

ゾーエー派においては、 「死亡した衆生のゾーエーから構成される集合体」という概念を、 「如来」と呼びます。 「如来」という言葉は概念をあらわす普通名詞ですが、 それに対して、「阿弥陀」という言葉は、 如来である存在者に与えられた固有名詞です。

ちなみに、ゾーエー派においては、 如来である存在者は阿弥陀のみであると考えられています。 なぜなら、修行によって煩悩を絶った人間も、 そうではない人間と同様に、 死んだのちは極楽に往生すると考えられているからです。 したがって、釈迦や薬師や大日は、 おのおのが単独で如来として存在しているのではなく、 阿弥陀という如来の一部分として存在していると考えられています。

問五・六 ゾーエー派でも、 衆生が極楽に往生するためには念仏をすることが必要だと考えられてるんですか。

はい。 ゾーエー派においても、衆生が極楽に往生するためには、 その衆生が念仏をすることが必要だと考えられています。

ただし、 ゾーエー派以外の浄土真宗の宗派とゾーエー派とでは、 いかなる行為を念仏とみなすかという点が大きく異なっています。 ゾーエー派以外の浄土真宗の宗派においては、 称名念仏を念仏とみなすわけですが、 それに対してゾーエー派においては、 「生きること」を念仏とみなします。 「生きること」は、 すべての衆生にとって不可避である行為ですから、必然的に、 阿弥陀はすべての衆生を極楽に往生させることになります。

問五・七 二種廻向についての教義って、ゾーエー派にもあるんですか。

はい。 ゾーエー派にも、 二種廻向(問三・七、問四・二参照)についての教義があります。 ただし、ゾーエー派における二種廻向についての教義は、 浄土真宗の他の宗派とは少し異なっています。

ゾーエー派においては、往相廻向というのは、 ビオスを失ってゾーエーのみとなった衆生に対して、阿弥陀が、 その衆生を極楽に往生させるという功徳を与える、 ということです。

そして、ゾーエー派における還相廻向というのは、 まだビオスとともに生きている衆生に対して阿弥陀が功徳を与える、 ということです。 ただし、この場合に阿弥陀が衆生に与える功徳は、 その衆生を極楽に往生させるということではなく、 「アタラクシア」と呼ばれるものです。 アタラクシアについては、第六節で、 詳しく説明することにしたいと思います。

[第六節]アタラクシア

問六・一 アタラクシアって何ですか。

「アタラクシア」というのは、 ビオスとともに生きている衆生に対して阿弥陀が与える幸福のことです。 ただし、 アタラクシアを幸福として認識しているのは阿弥陀のみであって、 いかなる衆生も、ビオスとともに生きている間は、 アタラクシアを幸福として認識することはできません。

問五・七で述べたように、アタラクシアは、 還相廻向における功徳、すなわち、 まだビオスとともに生きている衆生に対して阿弥陀が与える功徳です。

問六・二 なぜ、ビオスとともに生きてる衆生は、 アタラクシアを幸福として認識することができないのですか。

ビオスとともに生きてる衆生がアタラクシアを幸福として認識しない理由は、 人間以外の衆生と、人間とでは異なります。

人間以外の衆生がアタラクシアを幸福として認識しない理由は、 彼らが幸福という概念を持っていないからです。 それに対して、人間がアタラクシアを幸福として認識しない理由は、 人間が幸福として認識するものと、 阿弥陀が幸福として認識するものとが異なっているからです。

ビオスとともに生きている人間が追求する幸福は、 アタラクシアとはまったく異なるものです。 したがって、阿弥陀がアタラクシアを人間に与えたとしても、 人間がそれを幸福として認識することはありません。

ビオスとともに生きている人間が追求する幸福とはどのようなものなのか、 ということについては、 問六・三で説明することにしたいと思います。

問六・三 ビオスとともに生きてる人間は、 どんなものを幸福として認識するんですか。

ビオスとともに生きている人間が幸福として認識するものは、 煩悩を満足させることによって得られるものです。

煩悩というのは、問二・二で述べたように、 人間が持っている執着心のことです。 そして煩悩は、人間に苦しみを与える原因の一つです。 しかし、煩悩は、人間の苦しみの原因であるのみではなく、 人間の幸福の原因でもあります。

問六・四 衆生は、ビオスを失ってゾーエーのみとなったのちは、 アタラクシアを幸福として認識するんですか。

はい。 ビオスを失ってゾーエーのみとなった衆生は、 アタラクシアを幸福として認識します。

問五・二で述べたように、 ビオスは思考力を持つとは限りませんが、 すべてのゾーエーは思考力を持ちます。 さらに、ゾーエーは様々な抽象的な概念も持っています。 幸福も、ゾーエーが持っている概念の一つです。

煩悩は、人間が持つビオスから生まれるものです。 そして、それはゾーエーからは生まれません。 ですから、人間は、ビオスを失ってゾーエーのみとなったときに、 煩悩を失うことになります。 そのとき人間は、煩悩を満足させることによる幸福の追求が、 まったく意味のないことだった、ということを知ります。 そして、煩悩を失った人間は、 アタラクシアを幸福として認識するようになります。

問六・五 ビオスとともに生きている人間は、 たとえアタラクシアを幸福として認識することはできないとしても、 幸福ではない何かとしてそれを認識することはできるんですか。

はい。 ビオスとともに生きている人間は、 アタラクシアを幸福として認識することはできませんが、 それを滋味として味わうことは可能です。

問六・六 ビオスとともに生きている人間は、どうすれば、 アタラクシアを滋味として味わうことができるんですか。

ビオスとともに生きている人間は、思考することによって、 アタラクシアを滋味として味わうことができます。

ビオスとともに生きている衆生は、 その衆生がビオスの本性のままに生きているとき、 アタラクシアを滋味として味わうことができます。 ビオスの本性は、衆生の種類によって異なります。 人間のビオスの本性は、「思考するものである」ということです。 したがって、人間は、 「思考するものである」という本性のままに生きているとき、 アタラクシアを滋味として味わうことができます。

ただし、どのような思考であっても、 思考してさえいればアタラクシアを味わうことができる、 というわけではありません。 濃厚な滋味が得られる思考もあれば、 いかなる味も感じられないほど希薄な滋味しか得られない思考もあります。

得られる滋味の濃淡は、思考の「深さ」に比例します。 深く思考するというのは、掘り下げて考えるということです。 「掘り下げる」というのは、 結論に向かって短絡的に進むのではなく、 問題の本質を見極めるということです。

[第七節]信徒

問七・一 私はゾーエー派の信徒になりたいんですが、 どうすれば信徒になることができるんですか。

ゾーエー派の信徒になるためにしないといけないことは、 この経典(「浄土真宗ゾーエー派の教理問答」)を熟読して、 そこに書かれている教義が真実であると信じることです。

ゾーエー派以外の浄土真宗の宗派においては、 正式な信徒として認められるためには「帰敬式」(ききょうしき)と呼ばれる儀式を通過する必要があります。 しかし、ゾーエー派においては、 教義を信じることのみが信徒であるための条件ですので、 何らかの儀式を通過することは、 信徒になるために必要なことではありません。

問七・二 私はゾーエー派の信徒なんですが、私は、 阿弥陀以外の霊験あらたかな方々に願い事をしてもかまいませんか。

はい。 ゾーエー派の信徒は、 阿弥陀以外の超自然的な存在者に対して願い事をしても、 問題はありません。

さらに、ゾーエー派の信徒は、 ゾーエー派の教義との間で矛盾が生じない限り、 ゾーエー派以外の宗教を信仰することも許されています。

問七・三 私はゾーエー派の信徒なんですが、私が死んだときの葬儀は、 浄土真宗の様式ではなくてキリスト教の様式で挙げてもらいたいんです。 そういうことって、可能ですか。

はい、可能です。 ゾーエー派の信徒が亡くなった場合、その葬儀の様式は、 どんなものでもかまいません。 浄土真宗の様式で葬儀を挙げなければならないということはありません。 違う宗派の仏教の様式でも、神道の様式でも、 キリスト教の様式でも、まったく問題はありません。

問七・四 私はゾーエー派の信徒なんですが、私の戒名は、 誰に頼めば授けてもらえるんですか。

ゾーエー派においては、 「戒名」(かいみょう)あるいは「法名」(ほうみょう)と呼ばれるものは、 信徒にとって必要なものであるとは考えられていません。 しかし、それを持つことを禁止しているわけではありません。

ゾーエー派においては、任意の人間は、 任意の衆生に対して戒名を授けることができると考えられています。 自分で自分に戒名を授けることも可能です。 ただし、戒名を授けるためには、授ける人間が、 それの作り方についての知識を持っていることが必要です。

問七・五 私はゾーエー派の信徒なんですが、 出家をしたいと思っています。 どうすれば出家することができるんですか。

ゾーエー派の教義は、「出家する」という動詞に対して、 いかなる意味も与えていません。 したがって、ゾーエー派の信徒は、この動詞に対して、 自由に独自の意味を与えることが可能です。

もしもあなたが、ゾーエー派の信徒であり、かつ、 出家を望んでいるならば、第一に必要なことは、 「出家する」という動詞を自分で定義することです。 出家するための方法については、その定義が完了したのちに、 その定義に即して考える必要があります。

「出家」という動詞を自分で定義するという作業は、 自分がしたいと思っている出家というのはどのようなことなのか、 ということを改めて問い直すということです。

[第八節]教団

問八・一 団体って何ですか。

「団体」というのは、組織化された人間の集合のことです。

団体は人間の集合ですが、 人間の集合であるすべてのものが「団体」と呼ばれるわけではありません。 人間の集合が団体であるためには、 それが組織化されている必要があります。 たとえば、 九月に誕生日を迎えるすべての人間の集合は、団体ではありません。 なぜなら、その集合は組織化されていないからです。

問八・二 教団って何ですか。

「教団」というのは、 同一の宗教を信仰している信徒たちから構成される団体のことです。 「宗教団体」と呼ばれることもあります。

教団というのは団体の一種ですから、 それは単なる信徒の集合ではなく、それを構成している信徒たちは、 組織化されている必要があります。

問八・三 どんな宗教にも、必ず教団が存在するんですか。

いいえ。 すべての宗教が教団を持つとは限りません。

すべての宗教が教団を持つとは限らない理由は、 いかなる宗教も信徒が教団を作ることを要請するとは限らないからです。 信徒が教団を作ることを要請する宗教もあれば、 それを要請しない宗教もあります。 信徒が教団を作ることを要請しない宗教は、 教団を持つ必要性が存在しません。

問八・四 ゾーエー派って、教団はあるんですか。

いいえ。 ゾーエー派には教団はありません。

ゾーエー派の教団が存在しない理由は、ゾーエー派が、 信徒が教団を作ることを要請しない宗教だからです。 問八・三で述べたように、そのような宗教は、 教団を持つ必要性が存在しません。

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